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おたあジュリアの島暮らし

 キリシタン史跡保存協会員・田村襄次氏の「おたあジュリア調査報告書」(1962年訪島)に(()内 (P_^;)以下同)、こんな記述がある…
<島へ船が近づくにつれ、溶岩のいわおが海面に突忽として、『日本西教史』にある叙述そのままである。船が止まるとはしけが来て、それに乗り移り岸に向かうのであるが、へさきは波に躍り上がり、しぶきが顔にかかる。しかし、一度島に上がると気候温和な平和な島である。(1960年までは?)…略…石畳の坂を右手へ登って行くと、やがてかれた河に橋がかかっており(ナンパ橋!)、それを渡ってなおも小上がりに行くと一寺が見えた。(濤響寺?おたあ没後20年ほど後できたもの)この山門を出て右へ折れて行くこと二、三丁で交番がある。その前、一段高い所が流人塚である。…ジュリアはこの辺りから、もう少し集落寄りの丘伝いに小屋をしつらえて住んだと思われる。…>
おたあはドン・アウグスチノ(小西行長)の養女として育てられて洗礼を受けたのだから、フランシスコ会やイエズス会と強い絆があり、聖具や祭壇を送ってもらっているし、そこへ運命共同体の(キリシタン保護者でもあった)石田三成の残党が流れて来たのだから、むろんエアコンは無く安楽とは言えないまでも「気候温和な平和な島」での暮らし向きはキリシタン禁止令下の本土にいるよりも穏和であったと思われる。寛政年間に建替えられたという朝鮮様式のジュリア碑の元基も石田一族に拠るものと見ておかしくはない。三成は処刑されるとき、徳川方の僧侶の念仏を「宗派が違うので」断ったそうだが、真言宗ではなかったのか。すると、おたあの墓が日蓮宗の墓に取り囲まれているのも納得できる。もっとも、メジャーの日蓮宗ではなくキリシタン弾圧と同時期に流された特殊な不受不施派ということだが、しかし、彼らの境遇にあっては「呉越同舟」よりも更に渾融し易いことは自然だろう。
 三十万石大名の小西行長の子女として暮らしたのだから、少なくも庶民よりは遥かに贅沢な育ちをしたのではないかとも思われるが、三成と行長はともに私欲の無さは歌に唄われるほどであった。行長は堺にも教会と病院(おそらく日本初)を建てているし、徳川方に滅ぼされたあと金銀はむろん資産と呼べるほどのものは何も無かったという。
kouzushima * - * 19:05 * comments(0) * trackbacks(0) * pookmark

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